スキップしてメイン コンテンツに移動

海辺のカフカを読んでも

ひさしぶりに海辺のカフカを読んだ。それにつけても思われるのはアート・ガーファンクルである。重症だね。

機会と一緒に古いLPのコレクションもみつかった。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ビーチボーイズ、サイモンとガーファンクル、スティーヴィー・ワンダー……1960年代に流行った音楽ばかりだ。(上巻465ページ)
っていう何てことない描写にも胸がキュッとしたり。
本当に伝説・歴史・記号となった存在なんだな・・・しかしそのひとが今日も、10歳になった次男くんにゲームを制限すべきか悩んだり、コンサートしたり(次回は10月23日ニューヨーク州)している不思議。佐伯さん。

多くの人々はバッハやモーツァルトに比べてハイドンを軽く見ます。その音楽においても、その生き方においても。たしかに彼はその長い人生をとおして適度に革新的ではありましたが、決して前衛的ではありませんでした。しかし心を込めて注意深く聞き込めば、近代的自我への秘められた憧憬をそこに読み取ることができるはずです。・・・ほらね、静かではありますが、少年のような柔軟な好奇心に満ちた、そして求心的かつ執拗な精神がそこにはあります(下巻218ページ)

ここでアートを想起するのも失礼ではあるがしかし本人も軽んじられていると再三言っているしな。「柔軟な好奇心、求心的かつ執拗な精神」も当てはまりそうだし。
軽んじられているのは彼個人がというより、シンガー・ソングライターに対してシンガーが、反抗に対して賛美が。たとえば:

RJ: 偉大なシンガーたちは、充分な尊敬を得ていると思いますか?

AG: いいえ。今はシンガー・ソングライターの時代ですよ、ディラン以降。すばらしい歌手がどう遇されているか?――シナトラは自分で曲を書いたわけじゃないでしょう。本当に歌えるシンガーを思うと ―― Michael Macdonaldや Linda Rondstadt ―― 「これこそ歌手だ。声というものは充分に評価されていない」と言いたい。(BBC4によるインタビュー,2011 (その文字起こし(ありがたやありがたや)))

ポールはジョン・レノンに似ているよ。攻撃的で、反抗的な姿勢が。それがとっても受け入れられるんだよね。反抗的な姿勢ってのが基本なんだ。そういうのが大衆に受ける。攻撃的であるとか、品のいい音や健全なフレーズに肩入れしないとか。(SongTalk, 1990)
不仲時代ゆえか、ポール(とレノン)のある側面のみを強調しすぎだと思うけど、でもまあいいたいことはわかるし、気持ちもわかる。アートは一貫して賛美派だからね(そこがいい(という人(だけ)がファンになる))。


余談1
そしてその悲劇性は――アリストテレスが定義していることだけれど――皮肉なことに当事者の欠点によってというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる。僕の言っていることはわかるかい?人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇のなかに引きずり込まれていく。(上巻421ページ)
だって、欠点によって引きずり込まれた悲劇は自業自得としか見なされないゆえに悲劇にならないのでは。

余談2
「百万ドルトリオによる大公トリオ」を聞きにいったらコメント欄が村上春樹ファンクラブと化して楽しそうでした。はいはい!私もー!


大公トリオが私を捉えるかは未知だけど・・・アートの音楽にのめり込むと、次はジャズかクラシックあたりに行くしかない予感がしてる。彼のアルバムはあまりに美的にリッチで純粋で、洋菓子の最高峰みたいなものだから、それに甘やかされた耳には、普通のポップスやロック等が物足りなく夾雑に感じられる、という予感。
その理由を推測すると、彼が大衆音楽の様式を採用しつつも、本気で芸術を目指しているからではないか。美のための美を。だからソフト・ロックやポップスやAOLやアダルト・コンテンポラリーやら、カテゴリが定まらないし、どれにも収まらない。

プッチーニの音楽には、なんというか永遠の反時代性のようなものが感じられる。たしかに通俗的ではあるが、不思議に古びない。それは芸術としてひとつの素晴らしい達成だ(上巻312ページ)

に通ずるものがありそう。そして

アーティは彼が作りたいと望んだようなレコードを作ったと思うし、それは実際ひとつの達成だ。残念ながら、商業的に充分成功したと彼が感じられるほどには売れなかったけれども。でもアーティスティックな面では、失敗を感じていないだろう(ポール・サイモン、Playboyによるインタビュー, 1984)

というサイモンの発言。2か月前に読んだときは、ふんふんなるほどね、くらいに流してしまったけど、つくづく良く判っているんだなアートのこと。短い言葉でど真ん中をとらえる表現力に脱帽。



そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らのなかで何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにはあります。恋と同じです(下巻330ページ)

大島さんが「目盛りがあがる」と例えていること、私には「フック、とっかかりが増える」と感じられる。現にこうして『海辺のカフカ』を読みながら、アート・ガーファンクルをとっかかりに認識し考えている。夫は19年間(いつの間に・・・)で馴染みすぎてフックとして認識しにくいけど、実際はたぶん機能している。フミさんが1歳の頃、出先で消防車やクレーン車を見ると「フミさんがいたら喜ぶな」と思っていた。

これから何かちょっとしたことがあるたびに、ナカタさんならこういうときにどう言うだろう、ナカタさんならこういうときにどうするだろうって、俺はいちいち考えるんじゃねえかってさ。なんとなくそういう気がするんだね。で、そういうのはけっこう大きなことだと思うんだ。

ってことだね。恋でなくても人でなくても、愛するものごとが増えるのはいいことなんだ。良かったよかった(生活に支障を来さなければね)。

コメント

このブログの人気の投稿

GAS 同一カラムを複数条件でfilterできない件

Google Apps Script でSpreadsheetをデータベース代わりにwebアプリをポチポチ作ってて、スクリプトからSpreadsheetにフィルタかける場合、同一カラムに複数条件を設定できないことを知って残念……。 フィルタのかけ方はこんな感じ。 日付を範囲指定したいけど、After、Before片方しかつけられない。 var dataFile = SpreadsheetApp.openById(DATA_FILE_ID); var sh = dataFile.getSheetByName(LOG_SHEET_NAME); var criteriaDateAfter = SpreadsheetApp.newFilterCriteria().whenDateAfter(new Date(targetDate)).build(); var criteriaUserEqual = SpreadsheetApp.newFilterCriteria().whenTextEqualTo(user.id).build(); if (sh.getFilter()) { sh.getFilter().remove(); } var r = sh.getRange(1, 1, sh.getLastRow(), sh.getLastColumn()) .createFilter() .setColumnFilterCriteria(DATE_COL, criteriaDateAfter) .setColumnFilterCriteria(USER_ID_COL, criteriaUserEqual) .getRange(); FilterCriteriaに2回条件設定してみたり var criteriaDateRange = SpreadsheetApp.newFilterCriteria() .whenDateAfter(new Date(date1)) .whenDateBefore(new Date(date2)).build(); 同じカラムに2回条件設定してみたり var r = sh.getRange(1, 1, sh.get

兵士というもの

体制への信頼、懐疑、雰囲気といった変化していく現象を、あとから測定するためのひとつの方法が、行動を突き止めるというやり方である。 国立銀行への貯蓄高、死亡広告の文面、アドルフと命名された子どもの数、教会脱退者などなど。民族同胞の雰囲気が頂点に達したのは1937年から1939年の間、1941年以降は急速に低下した。 政治的に始まった抑圧を日常的実践へと移しかえたのは、人々が受動的であり、抑圧を容認し、批判的な言動を同じ考えの持ち主の間でしか行わなかったからであった。p.55 これこそが、近代的人間が一見暴力とは無縁であるかのように見える原因なのだ。人々は暴力を想定しておらず、暴力が起きたならば、それはなぜなのかつねに説明を探し求める。たとえ、何らかの手段としての暴力ではなかったとしてもである。それにたいして、自らの身体的不可侵性が保障されていると信じていない者は、常に暴力を想定し、それが起きても動揺することはない。したがって信頼と暴力のバランスはつねに微妙で難しいものとなる。p.77 暴力というものが反文明的なものであり、抑圧されなければならず、深刻な場合には撲滅しなければならないものという形を取るようになったのは、歴史的に見ればようやく近代になってからのことである。暴力それ自体が非難されるべきこととされ、もちろん手段としての暴力は避けられないとしてもその都度正当化が必要とされるか、もし起こってしまったとすれば説明が必要なものとなった。p.78 しかしたとえば、人間が性欲を持つということに理由づけは必要だろうか。食べたり飲んだり息をしたりすることに[中略]したがって説明が求められるのはその様態であって、根本的な動機ではないのだ。おそらく暴力の場合にも、そのように考えることが有益であろう。[中略]結局のところ人類が生き延びたのは、平和を作り出す能力ゆえではなく、狩猟のさいや、食料を争うあらゆる種類のライバルにたいして行使した暴力ゆえなのである。p.78 家庭という領域では依然としてパートナーや子供、ペットに対する暴力が存在しているし、教会や学生寮といった閉鎖された社会領域でも同様である。[中略]おそらく、日常生活から暴力が無縁になるにつれ、象徴的もしくは代理的に行使される暴力への欲求が高まるのだろう。そして国家間でも依然として、暴力は独占からはほど遠い。p.79

佐藤忠良・安野光雅『ねがいは「普通」』

創作の目標のひとつにしたい佐藤忠良さんの対談。 絵をまた描きはじめた目で読むと、あちこち響いてくる。 満州に行かされていたんです。じきにソ連が参戦し、突撃ってことになって――。僕は戦線から逃げ出したんですよ。隊長を誘惑してね。その時、逃げるっていっても行く先がはっきりしないんですよ。日本海を泳いで帰るわけにもいかない。あのころ三十三歳くらいでしたか、元気だったんですね。先が見えないなら、地続きの、かねて憧れていたパリまで、歩いて行くより仕方がない――真剣に考えたんです。 人の顔をつくるとき、その人の怒りや喜びや過ごしてきた時間――粘土の中にね、過去と現在と未来までも、かっこいい言い方すると時間性をぶち込もうとするんです。それが彫刻家の苦しさだと思う。[中略]永く鑑賞に耐える芸術は、時間性を持たなくては――。  彫刻って、手でいちばん苦労するんです。手の動き方一つで、きざになったり、甘ったれたものになってしまったり。手の位置にも苦労しますね。 たとえばリンゴを描きたいというときは、その作家の全内容が投影して、書きたくなるわけです。描きたいなって思ったときに、作者のあらゆる哲学的なものや、思想的なものが投影できれば、絵のリンゴのほうが実際のリンゴよりよく見えてくる――。 でも、シベリアに抑留されていた三年間、男ばかりで過ごしていると、本当に、すべてのことを見せ合ってしまう。その時、我々日本人っていうのは、教養と肉体がバラバラになっていると思いました。 僕は日本にいるときから、ヤギなんかずいぶん描いていて、シベリアにいたときは描く紙がないから、心に絵を描くみたいにしてヤギを見ていたんです。 いや、目の前にして言うのはなんですが、何度見ても飽きないものをつくるのは難しいことです。特に気品あるものを作るというのは――。(安野) 僕はいつも思うんですよ。隣人への憐れみがない芸術は嘘ですよ。<中略>気品のないもの、隣人へのいたわりのないものから本物の芸術は生まれてこない。芸術だけではないのですが。 (山根 いずれにせよ作品にまとめるとか、彫刻に生かそうということで、お二人はデッサンをなさるわけですよね) まあそうですが。彫刻に生かそうというか、何か栄養を蓄積するようなことなんですよ。<中略> 素描