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大河原 宏二『家族のように暮らしたい』

高崎市に定員30人の「ケアハウスきょうめ」を設立し、住み込みの施設長として運営してきた10年間のあれこれ記。

『スズキさんの休息と遍歴』を思わせるかつての青ヘル青年、小学校入学時には校長と教頭が挨拶に来たという大河原組の本家の次男、の語り口は、稀に見る筋金入りの、シニカルなようで底抜けな度量を感じさせて、小気味よく、感嘆させられる。

「生きるということは罪を犯してさらにそれに罪を重ねていくことなのだ」と呟き、周期的に「僕は医者をやめたい」ともらしたりする医師と、「犯してきた罪を数えあげたら首を括るしかない」と思っている世捨て人。どちらも人様のために福祉事業をやるような人間ではないのである。そんな二人が逃げ遅れた結果として始めることになった社会福祉事業ではないか。

というけれど、そういう人だからこそ、
各室に10畳の洋室、4畳半の和室、ミニキッチン、風呂トイレ、ベランダ。三食を食堂でみんな揃って食べる以外の決まりはなく、誰がいつでかけようと誰にお客があろうと自由、しかし希望すれば入浴、掃除といった介助だけでなく、ドライブや買い物にも個人的に連れて行ってくれ、徘徊するたび探しに来てくれ、痴呆になろうと寝たきりだろうと本人が望む限りここにいられる。ケア対象者ではなく独立した(でも手助けは必要な)個人として生きられる家。
を実現できたのかもしれない。
福祉は目の前の困難への対症療法なところがあると思うけど、この人達の見据えていた困難はもっと深いところにあるものだから。

活気に満ち溢れ、何事か行うときには人々の心が沸き立っていた――そういう日々が懐かしい。このように書くわたしもまた馬齢を重ねてくたびれてきている。・・・八年間にわたりここに暮らす人達に、わたしはエネルギーを吸い取られて続けてきたのだ。多少はなげやりになるのも仕方のないことだろう。
といいつつも、結局18年間離れることはなく、2010年に亡くなってしまったようで( http://blog.goo.ne.jp/akagi1300nabewarixc/e/3aec01ec3aab0f206d55e546980d5c2c )、大変残念です。

10年を過ぎる頃からここにやってくる人達が変わり始めた。あの頃の役者と同じようなドタバタを今の役者達もやってくれるのだが、それがまるで面白くない。楽しくない。腹が立つ。役者の資質が違っているということがあり、それとともに、こちらが観劇にくたびれてきているからだろうね。機械・器具に耐用年数があるように人間にも耐用年数があるんだね。賞味期限か。どんな仕事だって10年もやっていればくたびれはてて惰性的になるだろう。18年目はさらに面白くない芝居を見せつけられる1年になるのだろうと思っている。「真面目にならない」というのを18年目の施設運営の基本方針にしていくつもりだ。
ともおっしゃっていたようで、司馬遼太郎も組織は10年でダメになると言ったんだっけ?20年?30年?とにかく、組織やコミュニティの新陳代謝はつくづく難しいなと。

私の仲間からも老後、支え合って暮らすには、といった話が出るようになり、ケアハウスよりもう一段ゆるやかに、集って暮らすことができたらなあと思う。


福祉などというものは、この社会の矛盾の隠蔽であって解決ではない

管理されることなど大嫌いな人間は、他人を管理するようなこともしたくはない。<脱管理>はわたし達にとり難しい理屈ではなく、感性(好き嫌い)のことだった。

誰もが寝たきりになるくらいならポックリ死んでしまいたいと思っている。最も恐れているのは痴呆になることである。そういう人達に向って、「寝たきりがなんだ!」と言ってやり、「呆けたっていいじゃないか!」と言い切れないかぎり、ほかに何を良い、何をやってあげようが、入居者はケアハウスに安心して暮らすことはできず、職員と入居者とが信頼の絆で結ばれるようなことはありえない。

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