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7日目

日曜の定番コースとして図書館に寄って駅前で昼食。
隣の高円寺駅まで散歩。
 CONTEXT-Sというギャラリー兼雑貨店を見つけました。
3年前からあるそうですが今日まで気づきませんでした。
昭和レトロな店内に、陶器を中心とした雑貨。散歩の達人でも紹介されたそうです。
陶器に珍しくエッジがしゃきっとして四角いものが多く、丸より四角派の彼には嬉しいところ。
 ただ立方体が並んでくっついたオブジェ、灯りを入れたら素敵そうな円筒形の家、ミニチュアの脚立、椅子。中でも面白かったのは「枠」と名付けられた作品。うどん幅の陶板でできた、少しゆがんだ枠とその中の椅子、箱のような何か。窓辺に置けば小さな部屋がそこにあるような影絵が見られそうです。
 せっかくなので、ごく小さい花器を買いました。シナモン入りのミルクティー色ですべすべした6センチ角に1センチ角の口があいているもの。お店では菜の花のひと房だけ挿してありました。

 隣駅前で彼がオーバーコートを即決(珍しいこと)購入。イギリスの農作業用?とかでポケットが多くて風対策が徹底しているところが特徴。

 茶房高円寺書林という店も初めて見て行ってみました。
12席のこぢんまりした喫茶コーナーと児童書ほかの販売とをされています。
静かで落ち着ける店でした。

『ボスニアで起こったこと』伊藤芳明
新聞社の方らしく読みやすい文章。
しかし内容は心が重く暗くなる。アウシュビッツは狂人がもたらした例外ではなく、宗教裁判は蒙昧な過去の出来事ではないことを、20世紀からの私達は証明してしまったと思う。
人は人を殺す。ひどい事をする。怒りや恐れに動かされる。それを、無くすべき事と考えるより、普通にあってしまう事として対処するほうが、無理がないのではないでしょうか?
少なくとも日常の問題(喧嘩や失敗、行き違い)に対しては、起きてしまった事を嘆き非難するより、残念だけれど起きてしまった事は受け入れて次に進むほうが良いと、私は学びつつあります。

『シーラという子』トリイ・ヘイデン
『よその子』を気に入った彼が借りてきた。私は再読。

『貧困の終焉』ジェフリー・サックス
まだ読み始めたところ。翻訳が少し重たく感じて読むのに時間がかかりそうですが読んでいきます。

今日の進捗


今日も特になし。
図書館で「ワールドガイド」に代えて「地球の歩き方」を借りた。
私達の予算と興味にはこちらが適している。

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