スキップしてメイン コンテンツに移動

ポルト、ドウロ川へ鉄道で2009/07/11

田舎のほうが面白いし、「アブラハム渓谷」のドウロ川も見たいし、鉄道でポルト、そこからドウロ鉄道で川沿いを登ってどこかの町に行くことにする。川沿いの町レグアは、ガイドブックが”近くに観光向きの町が色々あるのにここに泊まる理由を探すのは難しい”と言うのでやめて、”昔から暮らし向きの良い町である”ラメーゴを選ぶ。レグアまで鉄道、そこからバスかタクシー3、40分。

 少し出遅れたけど発車30分前にはアポロニア駅に着く。切符自動販売機は誰も使わず窓口に長い列。私達も試してみたけど”ポルトへの便は無い”と表示されてしまった。英語表示が無くて使い方がわからない。で、列に並んだら2組前の観光旅行カップルが一向に進まない。複数日分の国際乗り継ぎルートを全部買おうとしているらしく、窓口の駅員には難しすぎるのか(実際に)頭を抱えてしまっている。後ろの、つまり私達の前の、おばあさんは大分そわそわカタカタいらいら、我慢しきれず「いつまでやってんの!?まったく何時間かかってんだ!!」(推測)と罵るし、後方からも「今乗る分だけ買いなさいよ」(推測)とアドバイスしにくるし、しかし青年は取り合わず粘り続け、隣のお嬢さんは集中砲火にうつむいてしまい、私達も乗り遅れそうで不安だった。結局、発車5分前に切符を手に入れ走って乗車。
問題の列
機械は空いてますが

 2等車売り切れで1等車2人58ユーロ、クッションが柔らかいし窓も大きいし、これは楽しい3時間になると期待したら、隣にとにかく常に何か音をたてたがる子供がいて気が散ってしまった。景色もそれを振り払うほど魅力的ではなかった。人家が途切れない。集落、畑、集落、畑の繰り返し。家も日本とあまり違わないし、というのは日本のほうが”南欧風”に作っているのかも。
どこかの駅
大体こんな景色

 12時過ぎポルト着。「駅前3分て書いてあるけど見つからんねぇ」と日本語が聞こえて軽く驚く。瞬時に聞き取って意味がわかる、母語というものはすごいなぁ。聞くんじゃなくて聞こえてくるんだもの。軽装で旅慣れた様子の中年女性2人でした。ワイン好きでポルト酒とかワイナリー巡りかね、と安直な想像をしてしまう。
ポルト駅

 次の次の電車まで3時間強あるので、食事して、バックパックをロッカーに入れて、大西洋を見に行く。メトロ、バス、バス、バス。切符の仕組みがわからず手間取ったり、2本目のバスは要らなかった(歩いたほうが早かった)り、3本目のバスは住宅街を大きく回るルートだったりと時間がかかって、海岸で過ごしたのは20分。戻りはメトロ駅にまっすぐ行く路線に乗るつもりだったのに、行きと同じ大回り路線に乗るしかないとわかってかなりあせる。自動車レースのために数キロの範囲で道路封鎖されていたのです。ここでも走って乗車。
これ、大西洋ね。

 木目デコラ張り、ボックス席、ローカル線な感じで楽しみ、、、と一息ついたところで重大な失敗に気がつく。川が見えるのは反対側の席だ!どうりで反対側から埋まっていったわけです。もう遅い。映画に使われた場所を調べてくれば良かったね、とか言いながら、結構住宅地とか林の中とかが続いて寝てしまう。今ペルーでインターネットしたら「レグアから先の景色が素晴らしいよ」と言ってる人が。ぬあー。
 それでもなかなか素敵でした。深緑の渓谷を黒っぽい川がゆったりうねうねと流れる安定感。
 レグア駅で見た夕陽が、空も山も川も金粉をまぶしたような光り具合でした。
 レグアの町は、ぱっと見た感じ、日本で川と温泉があるから一応ホテル2、3軒あるけど基本的には農林業です、という町みたいでした。そういうの好きだからここに泊まって、レグアから先の鉄道に乗れば良かったかも、、、。




 まだ宿に着かない、、、。レグア駅19時頃着。バス数台いるけど運転手がいない。運転手がいるバスはラメーゴ行きでない。ガイドブックにも”レグア駅から少し歩いたところから出る”としか書いてないし、誰に聞いてもそんな感じだし、とにかくホテルに電話して部屋はあるかバスはあるか聞いたら部屋はあった。バスはまだあると思う、と言う。で、1時間待ったけど来なくて、この間ずっと客待ちしてたタクシーに乗る。山越え、新興ベッドタウン越え、薄暗くなった頃にレグアに着いた。
 後でわかったのは、この日は土曜日でバスの本数が平日より少なく、すでに最終バスは行った後だったようです。

 この晩の食事がポルトガル滞在中ベストだった。カテドラル至近の小さな店。壁にゲストからのメッセージがびっしり5枚重ね。

コメント

このブログの人気の投稿

GAS 同一カラムを複数条件でfilterできない件

Google Apps Script でSpreadsheetをデータベース代わりにwebアプリをポチポチ作ってて、スクリプトからSpreadsheetにフィルタかける場合、同一カラムに複数条件を設定できないことを知って残念……。 フィルタのかけ方はこんな感じ。 日付を範囲指定したいけど、After、Before片方しかつけられない。 var dataFile = SpreadsheetApp.openById(DATA_FILE_ID); var sh = dataFile.getSheetByName(LOG_SHEET_NAME); var criteriaDateAfter = SpreadsheetApp.newFilterCriteria().whenDateAfter(new Date(targetDate)).build(); var criteriaUserEqual = SpreadsheetApp.newFilterCriteria().whenTextEqualTo(user.id).build(); if (sh.getFilter()) { sh.getFilter().remove(); } var r = sh.getRange(1, 1, sh.getLastRow(), sh.getLastColumn()) .createFilter() .setColumnFilterCriteria(DATE_COL, criteriaDateAfter) .setColumnFilterCriteria(USER_ID_COL, criteriaUserEqual) .getRange(); FilterCriteriaに2回条件設定してみたり var criteriaDateRange = SpreadsheetApp.newFilterCriteria() .whenDateAfter(new Date(date1)) .whenDateBefore(new Date(date2)).build(); 同じカラムに2回条件設定してみたり var r = sh.getRange(1, 1, sh.get

兵士というもの

体制への信頼、懐疑、雰囲気といった変化していく現象を、あとから測定するためのひとつの方法が、行動を突き止めるというやり方である。 国立銀行への貯蓄高、死亡広告の文面、アドルフと命名された子どもの数、教会脱退者などなど。民族同胞の雰囲気が頂点に達したのは1937年から1939年の間、1941年以降は急速に低下した。 政治的に始まった抑圧を日常的実践へと移しかえたのは、人々が受動的であり、抑圧を容認し、批判的な言動を同じ考えの持ち主の間でしか行わなかったからであった。p.55 これこそが、近代的人間が一見暴力とは無縁であるかのように見える原因なのだ。人々は暴力を想定しておらず、暴力が起きたならば、それはなぜなのかつねに説明を探し求める。たとえ、何らかの手段としての暴力ではなかったとしてもである。それにたいして、自らの身体的不可侵性が保障されていると信じていない者は、常に暴力を想定し、それが起きても動揺することはない。したがって信頼と暴力のバランスはつねに微妙で難しいものとなる。p.77 暴力というものが反文明的なものであり、抑圧されなければならず、深刻な場合には撲滅しなければならないものという形を取るようになったのは、歴史的に見ればようやく近代になってからのことである。暴力それ自体が非難されるべきこととされ、もちろん手段としての暴力は避けられないとしてもその都度正当化が必要とされるか、もし起こってしまったとすれば説明が必要なものとなった。p.78 しかしたとえば、人間が性欲を持つということに理由づけは必要だろうか。食べたり飲んだり息をしたりすることに[中略]したがって説明が求められるのはその様態であって、根本的な動機ではないのだ。おそらく暴力の場合にも、そのように考えることが有益であろう。[中略]結局のところ人類が生き延びたのは、平和を作り出す能力ゆえではなく、狩猟のさいや、食料を争うあらゆる種類のライバルにたいして行使した暴力ゆえなのである。p.78 家庭という領域では依然としてパートナーや子供、ペットに対する暴力が存在しているし、教会や学生寮といった閉鎖された社会領域でも同様である。[中略]おそらく、日常生活から暴力が無縁になるにつれ、象徴的もしくは代理的に行使される暴力への欲求が高まるのだろう。そして国家間でも依然として、暴力は独占からはほど遠い。p.79

佐藤忠良・安野光雅『ねがいは「普通」』

創作の目標のひとつにしたい佐藤忠良さんの対談。 絵をまた描きはじめた目で読むと、あちこち響いてくる。 満州に行かされていたんです。じきにソ連が参戦し、突撃ってことになって――。僕は戦線から逃げ出したんですよ。隊長を誘惑してね。その時、逃げるっていっても行く先がはっきりしないんですよ。日本海を泳いで帰るわけにもいかない。あのころ三十三歳くらいでしたか、元気だったんですね。先が見えないなら、地続きの、かねて憧れていたパリまで、歩いて行くより仕方がない――真剣に考えたんです。 人の顔をつくるとき、その人の怒りや喜びや過ごしてきた時間――粘土の中にね、過去と現在と未来までも、かっこいい言い方すると時間性をぶち込もうとするんです。それが彫刻家の苦しさだと思う。[中略]永く鑑賞に耐える芸術は、時間性を持たなくては――。  彫刻って、手でいちばん苦労するんです。手の動き方一つで、きざになったり、甘ったれたものになってしまったり。手の位置にも苦労しますね。 たとえばリンゴを描きたいというときは、その作家の全内容が投影して、書きたくなるわけです。描きたいなって思ったときに、作者のあらゆる哲学的なものや、思想的なものが投影できれば、絵のリンゴのほうが実際のリンゴよりよく見えてくる――。 でも、シベリアに抑留されていた三年間、男ばかりで過ごしていると、本当に、すべてのことを見せ合ってしまう。その時、我々日本人っていうのは、教養と肉体がバラバラになっていると思いました。 僕は日本にいるときから、ヤギなんかずいぶん描いていて、シベリアにいたときは描く紙がないから、心に絵を描くみたいにしてヤギを見ていたんです。 いや、目の前にして言うのはなんですが、何度見ても飽きないものをつくるのは難しいことです。特に気品あるものを作るというのは――。(安野) 僕はいつも思うんですよ。隣人への憐れみがない芸術は嘘ですよ。<中略>気品のないもの、隣人へのいたわりのないものから本物の芸術は生まれてこない。芸術だけではないのですが。 (山根 いずれにせよ作品にまとめるとか、彫刻に生かそうということで、お二人はデッサンをなさるわけですよね) まあそうですが。彫刻に生かそうというか、何か栄養を蓄積するようなことなんですよ。<中略> 素描