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20100207平塚から箱根湯本

二度寝してしまい今日もいまいち遅めの8:30出発。

平塚駅前商店街を抜け、100円ローソンで朝食用おにぎりと「ゆずそのまんま」(皮の砂糖漬け)を買う。

今日はかなりずっと国道1号。化粧坂のバス停で1回目の休憩し、わき道に入ったら旧東海道だった。大きな並木がいいですね。1組目の「東海道ウォーカー」に遭遇。


そのまま東海道本線沿いの路地に入って大磯駅、東小磯まで。大磯駅前は東海道ウォーカー、ツーリング部が大勢。
島崎藤村邸。通り道から100mだったので前まで行ってみる
*線路をくぐる通路。ずいぶん立派な作り、その名も「ゆめのちかみち」。

城山公園前で2回目の休憩。その先カーブ曲がったら正面にぱっと富士山が見えて感動。

ここらから二宮にかけて東海道ウォーカーの大集団にすれ違う。50~60代、帽子リュック手袋ジャンパー完備、地図を片手に脇見はせずぐんぐん歩く。小学校の登校時間なみの混雑。数えたのは100人まで。300人はいたんじゃないか。圧倒されてぐったり。
それにしても私と同じ向きに進む人はいない、どうして?
  ・そっち向きラッシュに出遅れた
  ・歩くのが遅くて追いつかない(でも追いつかれもしない)
  ・すれ違って挨拶するのが面倒でみんな同じ向きを選ぶ
  ・この大集団がなんか特例(イベント)
どれも当たりと思えない。あの年代は人口が多いし何しても集団になってしまうのは仕方ないのかねぇ。
私が大好きな立ち木で作った門のある家を眺めてたらウォーカーおじさん「迷ったの?この先に名所旧跡とかあるの?」やっぱり名所旧跡なのか。
これは別の家。この門も味があって素敵。
蔵の窓にベランダをつける斬新アイデア

国府津あたりで海が見えた
お供え大福

吾妻神社で3回目の休憩。そろそろつらくなってきた。昼食どころを探すと見つからない。カフェ・グランパは定休日、本日の定食金目鯛の煮付け1300円は高いでしょ、道路反対側に行く気はしないし、、、と困ってたら
青島みかん100円!
ただでさえ荷物が重いし足のマメが痛いのに、、、と悩んで、けっきょく買ってしまう。お茶代わりにせっせと食べて軽くする。
酒匂川。橋の上は風が強くて足に響く、と残念な感想。

親木橋東の天理教前バス停で4回目休憩。もちろんみかんを食べる。

道の反対側から声がかかる。スクーターに乗った青ジャンパーのおじさん。
  家出すんの?!
  違います。名古屋まで行くんです。
  歩いて?!
  まあ、今日は箱根湯本まで、、、
  歩いて?!うわーーー!!
ストレートな反応ありがとうございました。あとあと、この思い出でがんばれました。

GLA小田原集会所の近くで5回目休憩。みかん半分片付けた。かまぼこ屋がちらほら、小田原らしい。

小田原着、3時過ぎを覚悟してたけど2時半過ぎだった。歩道のわずかな傾き(横方向)が気になる、、、くらい足は痛い。風がなくてよかったよ。もう登山鉄道に乗っちゃおうか、、、しかし青ジャンパーおじさんを思い出してがんばる。
平凡な路地を歩いてます

西湘バイパスをくぐり、なんとか東風祭に来た。鈴廣かまぼこ館、巨大。
左の歩道が消滅したから無理してこっちに渡ってきたのに!!
憤慨しつつ渡った歩道橋のとなりに久しぶりの公園あり。6回目休憩。「ゆずそのまんま」食べる。胃の内容物、柑橘類の皮だけだなぁ。

風祭でも入生田でも登山鉄道の誘惑を青ジャンパーの思い出でかわして歩く。

山崎で国道はなれて少し行ったところで、やはり休憩中の老婦人と立ち話。60代、ひょっとしたら70歳を超えているかもしれないけど元気でオシャレ。自転車が好きで小田原や鴨宮まで行くらしい。すごい。行きはシャーっとだけど帰りは休み休みね。1人がいいわよ気楽で。

あと少し。急にきつくなった坂道をちまちま登る。宿は旧街道側に看板を出してなく通り過ぎてしまった。もったいない、、、明日また登るのか、、、。

そば温泉箱根乃庵に17時着。27.5kmを8時間強。ふすまの破れ、急須の口欠け、窓から露天風呂が丸見え、若者団体がやかましい、ですがコタツが嬉しい。

お待ちかねの夕食ですが夜の箱根は暗かった。冬だから?山道で出歩かないから?みんな早々に閉店しちゃって。日清亭で2番セット(ちまき、揚げワンタン、小ラーメン、コップビール)。うまうま。

それから箱根湯本唯一のYahoo!BBスポット、ルノアールへ。閉店まで45分しかなくても「9時までですが、、、」と言わなかった笑顔の素敵な店員さん。ルノアール大好き!

今日気になったことば
  「無価物」
酒匂あたりの悲しいゴミ分別用語。ガラス、瀬戸物、金属を含むおもちゃなど。

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